HANS
―闇のリフレイン―


夜想曲5 April

3 二つの弾丸


それから10分もしないうちにジョンとリンダが駆け付けた。追ってすぐにルドルフも来た。
「大丈夫。弾丸は急所からずれてる」
応急処置をしていたリンダが言った。
「生きたまま捕獲するとは、おまえにしては上出来じゃないか」
ルドルフが褒めた。
「他に仲間がいるかもしれない。情報を引き出すまで生かしておくのが鉄則でしょ?」
もっともらしくハンスが言った。
「その通り」
ルドルフが感心したようにその顔を覗く。

「ね? 僕、間違っていなかったでしょ? あなたがもっと信用してくれてたら、僕のウサギさんは死なずに済んだんだ」
穴の空いたぬいぐるみを抱えて文句を言う。
「わかった。あとで褒美をやる」
そう言うとルドルフはリンダに話し掛けた。
「そいつの様子はどうだ?」
「血止めはしたけど、手術が必要ね。このまま基地の病院に搬送するわ」
茂った草と絡み合った枝の間から朝日が覗く。

「ところで、この男、見覚えある?」
ジョンが訊いた。
「いや。面識はない。だが、ギュンターと組んでいた男かもしれない。濃い茶の縮れ毛で左手に蛇のタトゥを入れていると聞いた」
「なるほど。特徴が一致してるわね」
リンダが男の袖をめくって言う。
「もし、この男がそうなら、相棒も来日しているかもしれない」
ジョンが端末を片手に口を添える。
「間違いないだろう。奴らは二人で一つの仕事を請け負うのが常だった」
ルドルフはそう言って顔を顰めた。前方の白神家の窓が開いたのを見たからだ。ここは元々、白神家の所有地なのだ。

「おばさん、こっち見てるよ、あの人、口うるさくて有名なんだ。僕のこと、ヒモって言ったし……」
ハンスが呟くように言う。
「僕が何とかしよう。ついでに林の枝を選ってもらえるように交渉して来るよ。これじゃ、視界が悪過ぎるからね。敵の絶好の隠れ蓑になってしまう」
「いいだろう。こいつは俺達が運んでおく」
ルドルフが言うとジョンは白神家の方へと歩き出した。その間にリンダは男にシートを掛けると全身を包んだ。
「ハンス、おまえは美樹の面倒を見ててやれ」
ルドルフが指示する。
「言われなくたってそうするよ」
ハンスはぶつぶつ言いながらそこを立ち去った。


ところが、家に戻ってみると、リビングや寝室、書斎にも彼女はいなかった。
「美樹……?」
彼は地下に降りて行った。
部屋の前にマイケルがいた。
「美樹は?」
ハンスが訊くとマイケルはオーディオルームの扉を差した。
「中だよ。ここなら壁も厚いし万全だから……。君が来たんじゃ、僕は上に行くよ」
そう言うとマイケルは階段を上がって行った。

(可哀想に……。僕の小鳥は怯えてしまったんだ)
ハンスは厚い扉を開けた。そこはホームコンサートが開けるようなホール仕立てになっていた。部屋にはソファーや折りたたみの椅子やテーブルが置かれている。その部屋の隅の暗がりに、彼女は蹲っていた。
「美樹……」
照明のスイッチを入れようとすると、彼女は小声で制した。通路の灯りだけがその陰影を浮かび上がらせている。彼はゆっくりと近づいてその肩を抱いた。その腕に微かな震えが伝わって来る。
「怖がらせてごめんね」
囁く彼の腕に凭れるように、美樹は嗚咽を漏らした。

「本当にごめん……。こんなことなら、僕が来なければ良かったんだね」
その言葉に思わず顔を上げる。
「……違うの」
小さな声でそれだけ言うと彼女は立ち上がって彼の胸に顔を埋めた。彼はそんな美樹の背を何度も撫でる。
「怖かったの」
美樹がぽつんと口にする。それを聞いて彼は黙って頷く。
「ほんとに、すごく怖かった……」
そんな彼女をハンスは出来る限りやさしく、そして力強く抱いた。
「あの日のこと思い出して……」

並べられた椅子は客席の……。楕円のテーブルの影はグランドピアノがそこにあるかのように見えた。ここはホールなのだとハンスは思った。
「1年半前のコンサートのこと思い出して……」
美樹が続ける。
「せっかく帰って来てくれたのにまた……銃で撃たれて……死んでしまったら、今度こそ戻って来てくれなくなるって思って……。いくら不死鳥だと言われているあなたでも、もう3度目だし……。そう思ったら急に恐ろしくなって……わたし……」
「美樹……」
息が熱かった。触れている腕も柔らかな胸も、紡がれる言葉も何もかもがしっとりと指先に絡み付いて来る。
「ああ、泣かないで、僕の小鳥……。僕はいるよ。ずっと君の傍に……。いつだって君の傍にいます。だから……」


熱い興奮と喝采が、耳の奥で鳴り止まなかった。
あの日。最初で最後のコンサートの舞台で彼はピアノの前に座っていた。
はじめはコンソレーション。それから、プレリュードOp,28-6、幻想ポロネーズ。そして、ソナタOp.53……。それは迸る熱と天井のない魂の高揚。
客席は熱気の渦に呑まれ、立ち見の者達はどこの地に自分の足が付いているのかさえもおぼつかない有様だった。しかし、その観客のほとんどが外国人で締められていた。日本人は美樹と黒木、飴井、そして増野の4人と少数の関係者のみだった。

ルビー・ラズレインのコンサートという情報はインターネットを通じて世界に発信され、発売すると瞬く間に完売してしまった。結果として、黒木が言うように一般の人々にその感動を届けることは出来なかった。会場も東京郊外で、宣伝する時間も足りなかった。
が、彼は幸せだった。それは彼が夢見た、誰も殺さなくてもいい仕事抜きのコンサートだったからだ。
客席には美樹がいた。二人は前日の夜、海の公園で愛を誓った。

――今夜、一度だけ僕と愛を奏でてくれますか?

二人はその夜、海辺のホテルにチェックインした。窓から見える街の夜景と部屋に設置されたプラネタリウムの灯りがゆっくりと壁や天井を巡回して行く。
「僕は先にシャワーを浴びて来ます。君がいやなら無理しないで……。黙って部屋を出て行ってください。僕は責めたりしないから……」
もし同情から自分に付いて来たのだとしたら、ここで返した方がいいと思ったのだ。
しかし、彼がシャワーを済ませて出て来ると、彼女はまだ部屋にいた。窓から夜景を眺めている。
「美樹……」
喜びが彼の身体を熱くした。

「君もシャワーを浴びておいでよ。乾杯の用意をして待っている」
浴室の向こうで水音が聞こえる。彼はフロントに電話してワインを注文した。それから、自分の端末でギルフォートに電話を掛けた。
「僕だよギル。あなたに一つ頼みがあるんだ。僕の最後のお願いを聞いて欲しい」
――「何をだ?」
「明日のコンサート、僕はアンコールで『幻想即興曲』を弾く。それが合図さ。その時には胸に白薔薇を差すよ。そして、演奏が終わったらあなたの銃で僕を撃って欲しいんだ」
――「……」
「今、彼女とホテルにいるんだ」
声が上ずるのを感じた。

――「隣にいるのか?」
「シャワーを浴びてる。彼女はね、僕から逃げなかったんだ。僕は逃げてもいいと言ったのに、あの子はここに残ってくれたんだよ。だから、これから僕達は最初で最後の素晴らしい夜を過ごすつもりだ。そうしたらもう、何も思い残すことなんてないからね。明日はコンサートだし、そこで最高の演奏をする。それで終わりにする」
――「おまえは……何を考えている?」
「もう、痛いのも苦しいのもいやだから、あなたの手で僕を殺して欲しいんだ。あなたなら外すことはないでしょう? グルド1のスナイパーの腕を、僕は信用しているよ」
ルビーは早口で言った。
――「彼女は……」
「悲しむだろうね。でも、その方がいいんだ。きっと……」

それから、二人はワインで乾杯し、幸福を噛み締めるように大切な時間を生きた。
「素敵だ。僕は一生忘れないよ。君のやさしい音色……。柔らかくてやさしくて、あたたかな君の心臓の鼓動を……」
彼は絡めた指を吸い、何度も唇を重ねる。
「ずっとこうしていたい……君と……」
瞳の中で閃くオーロラ。降り注ぐ小さな星の欠片。白いシーツに包まれて、二人はプロジェクターによって投影された宇宙を見上げる。
「でも、明日は大事なコンサートの日でしょう?」
彼はプラネタリウムのスイッチを切ると無音になった部屋で囁く。
「そうだね」
それから彼女の胸に指を這わせて言った。
「でも、今はピアノより君が好き……」
どんな日にも消えない彼の中のメロディーがこの時だけは二重に時を打ち、導を刻んだ。

間接照明の淡い光が一つだけテーブルに灯っている。
「君、怖がらないんだね、僕の傷を見ても……」
深まる闇の先にその手を翳してルビーが訊いた。
「何故?」
「これまで、多くの人がこの傷を見て逃げ出して行った……」
「わたしは平気。痛々しいとは思うけど、何となくきれいだなって思うの」
細い指が傷跡をなぞる。それから、そっと唇を寄せた。
「わたしって変かな?」
「変じゃない。だって、前にもそう言ってくれた人がいたもの」
「結婚してた人?」
「違う。でも、その人も僕を大切にしてくれた。この地上には、時々天使が降りて来るんだよ。こんな僕でも受け入れてくれる心やさしい天使がね」

「天使はあなたの方でしょう? こんな風に現れて、こんな風に愛し合って、そして……。この傷はきっと自由に飛ぶための翼。その羽の一枚一枚が彫り込まれているの。だから、早く魔法を解いて自由にしてやらないといけないわ」
そう言って、彼女が撫でるその度に傷は消えて行った。彼はすべての柵から解放されて行くような気がした。彼女の手によって解き放たれて行く快楽を楽しんでいる自分を発見して彼自身ひどく驚いていた。


そして、夜が明ける前に彼女を送ると、彼は飴井の家を訪ねた。
「どうしたんだ? こんな時間に……」
「明日はコンサートだから、今夜のうちにあなたにお願いしておこうと思って……」
事務所のソファーに掛けると彼は書類の入った封筒と紙包みを出してテーブルに置いた。
「母様のお墓を探すのに掛かった費用と、これから先、掛かる費用です。足りないかもしれないけど、今、僕が用意出来るのはこれだけなので……」
差し出したのはキャッシュの束。
中身を確認するとざっと500万程の札が無造作に入れられていた。
「こんなに掛からないさ」
飴井がそれを戻してルビーに返す。」

「借りた部屋の後始末のこともあるし、美樹のために何かしてあげて欲しい。あるいは、あなた自身のために使ってもいい。僕にはもう、必要のない物だから……」
「それにしても……」
その時、柱時計が3時を告げた。ルビーはそれを聞くと襟を正してこう言った。
「美樹を、よろしくお願いします」
「どういう意味だ?」
飴井は彼の真意を測りかねて訊いた。
「僕は今夜、彼女と寝た」
それは思いがけない言葉だった。

「でも、どうか彼女を責めないで下さい。僕が無理矢理誘ったのです。僕はもう、明日が最後のコンサートだから……。それが終わったら、彼女の前から消える。僕にはもう時間がないから……。でも、彼女には幸せになって欲しい。エゴイズムだとわかっている。でも、こんな風にしか、僕は愛情を示せない。キャンディー、あなたなら、きっと彼女をあたたかく包んでくれるでしょう? 彼女もあなたに好感を持っている。僕がいなくなれば、きっとあなたの方に気持ちが向く。だから……」
「なら、どうして彼女を傷付けた?」
口調は静かだったが、視線は鋭く彼を捕らえた。
「おまえは結局、自分の気持ちを優先したんだ」
「そうかもしれない。でも……」
ルビーは俯き、手を見つめた。そこにあった筈の指輪はどこにもない。自由になった筈の手は、ただ宙を掻いて沈んだ。

「彼女のことが好きだと言いながら、そんな風に中途半端に期待させて、弄んだ末に捨てるのか?」
男の手が無意識に拳を握る。
「違う! 僕は本当に心から彼女を愛してる。だからこそ、あなたに頼んでるんだ! もしも、僕に時間があるなら、こんなことは言わない。僕は彼女が好きだ。誰にも渡したくない。僕達は運命によって結ばれているのだから……」
ルビーが主張する。二人は凜として互いを睨んだ。

「どうしてそんなことがわかる?」
息を吐き出しながら飴井は握った拳をそっと開いた。
「わかりますよ。彼女の手が僕の傷に触れた時、傷は消えて見えなくなった。彼女は僕のすべてを受け入れてくれた。こんなことは初めてだ。だから僕は、そんな彼女のやさしさを大切にしなくちゃいけないんだ。守ってやらなければ……」
「守るだって? 人殺しのおまえが?」
「人殺しだからこそ、命の重さをわかっている」
窓際に置かれたサボテンの赤い花。窓の向こうでは風が強く吹いている。

「彼女はそれも受け入れたと言うんだな?」
「そうですよ」
「なら、どうして生きようとしない? 自分が生き延びて彼女を守ってやればいいじゃないか」
「それは出来ないんです。僕はこれまで自分がやってきたことをすべて精算しなければならない」
「殊勝な心がけだな。しかし、それは身勝手というものなんじゃないのか?」
「あなたの言い方だって身勝手ですよ。自分の気持ちより彼女のことを考えてる」
「今回のことで一番傷付くのは彼女だ」
「あなたならそう言うと思いました。キャンディー、だから、ここに来たですよ。彼女のことお願いしに……。医者は嘘つきだから、もうずっと微熱が続いていて……。早く薬を飲まないと眠ってしまいそうだから……。僕はもう行かなくちゃ……。明日はコンサートだし……」
そう言うとルビーはふらふらと立ち上がった。
「そうだな。もう寝た方がいい。明日は大事なコンサートなんだろ? その後でゆっくり話し合おう」
「おやすみなさい」
彼は飴井の事務所を後にした。


そして、翌日。彼は光に包まれていた。舞台の上ではどんな奇跡でも起こせる気がした。それは音を支配する者の手によって奏でられた快楽と希望。そして、悦楽の果てに見たものは、足元に開いた深淵。そこから噴き出して来る畏怖と狂気。それでも、人は甘い誘惑へと身を委ねる。花園から地獄の荒野へ、そして、さらにその先の虚空へ……。そこはもうホールでも宇宙でも地底でもなかったが、導く者の光を見た。そこに設えられた舞台で舞う幻想の蝶の羽ばたきを……。
調べは耳を通じて全身に広がり、その指先までも痺れ、集う心臓の群れは共鳴する命を奏でた。鳴り止まない拍手の中で弾いたアンコール。彼は最後に美樹が手渡した花束を受け取ると、笑顔で握手を交わした。
「ありがとう……」
離れまいとした手の温もりは、彼に一瞬の安らぎを与えた。手渡された物を抱えて立ち上がるとピアノの前に座った。胸には白い薔薇を差した。弾こうとしているのは彼が大切にして来た思い入れのある曲だった。

(僕は最後にこの曲を弾くよ。ただ、君のためだけに……)
最初の1音がホールに響く。そこに込められたすべての想い。集約された人生と命の残響を彼は弾いた。そして、曲が終わると彼は静かに席を立った。それからやや中央に歩み寄り、最後の挨拶をした。軽い会釈と微笑み。光の中に溶けて行きそうな幸福の絶頂。拍手と歓声に包まれた瞬間、狙い澄ましたように一発の銃弾が彼の胸を赤く染めた。
「ルビー!」
階段を駆け下りて舞台に向かう飴井。席に着いたまま、動けずにいる美樹。

――ありがとう

散った花びらの中で、彼は微笑んでいた。
そして、厚い緞帳がゆっくりと降り、光の中に倒れた彼と観客とを永遠に隔てたのだ。


ルビーが前日の夜にギルフォートに注文したのは彼を殺すための弾丸。しかし、同じ夜に彼を生かすための弾丸を注文した男がいた。

――殺すのが得意なあなたなら、生かすことも可能な筈だ。アメリカはあなた方を受け入れる。身分の保証も約束します。ぜひ、我々と手を組んで欲しい

それは、ジョン・マグナムからの依頼だった。

――ダーク・ピアニストとしてのルビーには死んでもらいます。しかし、彼の能力は希少なものだ。ピアニストとしても、風の能力者としてもね。だが、手続きが必要だ。僕達が手を握るためには……。そのためにはどんな援助でもしますよ。最初にあなたに請け負ってもらう仕事はルビー・ラズレインの抹殺です

テーブルの上には弾丸は二つあった。一つは死、そして、もう一つは命。男はそれを二つとも銃にセットした。それから弾倉を、ランダムに回転させる。
「生か死か。おまえ自身で選べ」
そして、発射された弾丸は心臓の真上で止まった。選ばれたのは……。
彼はそのまま基地の病院へ搬送され、処置を施された後、ドイツへ移送された。公には、この段階で、彼は死亡したと報じられた。が、実際には隔離された軍の病院で腫瘍の摘出手術を受けていた。そうして彼は真の意味で命を取り留めた。その後、大きな葛藤と苦しみの中、再び美樹に会えるかもしれないという希望を抱いて辛いリハビリを乗り越え、ここ日本に来たのだ。


その日、ハンスが行っている子ども達のピアノ教室は中止した。ギュンターが捕まっていない以上、慎重に動かなければならなかった。その時間に、ハンスとルドルフ、飴井、そしてジョンの4人は情報のすり合わせと今後の対策のため、基地の施設の1室を借りて会議を行っていた。

「それにしても、誰に雇われたんだと思う?」
集まったメンバーに飴井が訊いた。
「以前、グルドと関わりのあった人物。具体的には篠山周五郎という代議士の件がそれですね。4年半前にグルドに依頼したという経歴があります」

ジョンの説明に飴井が顔を顰める。
「いやなこと思い出させるな」
彼はさり気なくハンスを見た。
「ああ。あれね。僕は詳しいこと知らないけど、ルドなら何かわかるんじゃない?」
兄を見て笑う。
「確か白木守とか言う奴だったと思う。もっとも本名ではないかもしれないが……」
「白木守は木ノ花会の理事で今は文科省のトップ、梅坂という男の別称です」
ジョンが資料を見て言う。
「梅坂だって?」
飴井が驚いてその顔を見る。
「梅坂といえば、有住財閥と肩を並べる丸目グループの御曹司じゃないか」
「そう。元を正せば内輪もめのようですけどね。当時、梅坂と篠山とは協力関係にあったようですが、篠山が丸目の弱みを掴んで脅迫したらしいのです。国の議案に関係した重要な機密をリークすると言い出した。多額の金銭が動いただけではなく、それが暴露されれば政権に致命的なダメージが及ぶ。それを阻止するために篠山には速やかに退場してもらわなければならなかった。そこで証拠が残らず、確実に仕留められるという条件でグルドに依頼が入ったという訳です」
ジョンの説明に飴井は憤然として言った。
「要は自分達がしでかした不始末の証拠隠しのためじゃないか」
「そういうことです」
ジョンは淡々と説明する。
「おい、その証拠書類、今からでもかき集めれば間に合うんじゃないか?」
「書類だけでは無理ですね。司法も警察も動きませんよ。皆、木ノ花会の息の掛かった連中ばかりですからね」
ジョンが冷静に指摘する。
「何てこった! いったいどうなっているんだか、この国は……」
飴井が嘆く。

「篠山の息子が薬島音大にいるのはどういう訳だろう」
じっと何かを考えていたハンスが訊いた。
「ああ。気になるといえば気になるね。彼は父親が死んだ後、すっかり権力も失くして大人しくしてたんだけど、最近は活発に国会議員や木ノ花会にも接触しているし……」

「ところで、ギュンターの行方はわかったか?」
ルドルフが訊いた。
「残念だけど今のところはまだ不明です。ただ、今朝捕獲した相棒の方は身元が割れた。ワルター・ヴェーレ、28才。北アイルランドの出身で、18才の時、グルドに入って射撃訓練を受けている」
「訓練受けたのにあの程度なんてね。きっとギルのクラスじゃなかったんだね」
ハンスが笑う。
「ああ。俺のクラスに入れるなら指輪の穴だって狙える筈さ」
ルドルフの言葉にハンスは首を竦めて言った。
「へえ。だから、あなたはその手で蝶の心臓を射貫いたのか」
ハンスは遠い過去を振り返って言う。
「おい、何の話だ?」
事情を知らない飴井が訊く。
「今は亡き王女エレーゼ・ラズレインの話さ」
ハンスが答える。
「わからんな」
「知らないの? 「亡き王女のためのパヴァーヌ」って曲。知らないなら僕、弾いてあげようか?」
「いや、結構だ。話をはぐらかさないでくれ」
やれやれといった調子で飴井が言う。
「別にはぐらかしているつもりはないんだけどね」
そう言ってハンスは兄の方を見た。が、彼は黙って資料を読んでいる。
「では、話を戻そう。過去、篠山事件の時、グルドへの橋渡しをした人物A。そして、その情報を知り得た人物B。さらに今回、実際にコンタクトを取り、ギュンターとワルターを呼び寄せた人物C。それらを徹底的に調査する。そして、何故、ハンスが狙われたのか。もし、標的がハンスなら、もう一人の狙撃犯であるギュンターもまたハンスを狙って来るかもしれないということ」
ジョンの言葉に皆が頷く。

「この件が決着するまで、美樹は実家に帰した方がいいんじゃないのか?」
飴井が進言した。
「僕がいるのに?」
不服そうなハンス。
「おまえがいるから危ないんだろ? 彼女を危険に巻き込むつもりか?」
「守ってみせるよ」
飴井の言葉にハンスが逆らう。

「やめておけ」
そこにルドルフが口を挟んだ。
「何故?」
「いくら能力者でも不可能なことはある。エスタレーゼの時のことを忘れたか?」
「今、それをあなたが言うの? この僕に」
「美樹の父親はその道のプロだ。ここにいるメンバーに劣らない実力がある」
が、弟は不服そうに兄を睨んだ。

「でも、移動時間もあるし、実家よりも基地で預かった方が安全じゃないかな?」
ジョンが穏やかな調子で助け船を出した。が、ハンスはテーブルを叩いて言う。
「みんなでよってたかって僕から美樹ちゃんを取り上げようとするなんて酷いよ」
「おまえの言ってることの方がよほど酷いだろ?」
飴井が威圧的に言う。
「もう、あの時とは違うんだ。1年半前、美樹を任せると言った時とは……。あの時言ったことは取り消すって言ったじゃないか!」
「何を言ってるんだ? こんな時に……」
湿った風がその場の空気を重くした。外では雨が降り出していた。

――あめいのあめってレインの雨のことですか?

風が記憶を運んで来る。そこは窓もない密閉された部屋だった。入り口のドアと冷暖房装置。そして、小さな換気扇が一つ。それでも風は流れて行く。人の心の奥を通って……。


4年半前、ルビーは容疑者にはなり得なかった。ピアノを弾いている間に人を殺傷するなどということは、常識から言って考えられなかったからだ。ところが、飴井は調べるうちに意外な事実に突き当たった。ルビーの演奏中に起きた事件が多すぎるのだ。それは発生自体が海外だということもあり、調査は困難を極めた。そのうちの幾つかについては情報の出所も怪しい。しかし、ルビーの周りには常に死の影が付きまとっていた。そして、ついに飴井は彼のコードネームを知ることになる。
「ダーク・ピアニスト……」


1年半前、再度来日したルビーはその時、飴井の事務所にいた。
「驚いたよ。おまえが演奏中に殺人を行っているテロリスト、ダーク・ピアニストだったとはな」
飴井は顔色一つ変えずに言った。
「何故そう思うですか?」
黒いスーツに身を包んだ彼が夜を映したような瞳を向ける。外気は冷えて、風が強くなっていたが、相手の男は落ち着いていた。

「3年前、俺がまだ神奈川県警に勤務していた頃、篠山邸で行われたパーティーで、おまえはピアノを弾いていた。だが、その最中に殺人は起きた。初動捜査で俺は、楽器を演奏し、両手がふさがっているおまえに殺人が出来る筈がないと真っ先に除外した。だが、あとになって経歴を調べると、ヨーロッパで起きた数々の事件におまえは関与していることを知った」
飴井は抑揚のない調子で言った。
「それは正しくありませんね。僕の知らない所で、誰かがやって来たことの責任を僕は取りようがないですよ」
窓の向こうに見えるのは、厚い雲に覆われたスクリーンのような空。聞こえて来るのは重くて低い風の遠吠え。

「だが、おまえは手を下した」
「僕はテロリストじゃありません。篠山が殺されたと言うなら、それだけの理由があったんですよ。誰かに恨みを買うようなことが……。だから、グルドは命令した」
その言葉を聞くと、飴井は注意深く目の前の男を見た。
「命令されれば殺すのか?」
「それが正義だと信じてたから……」
テーブルには小さな鉢植えと灰皿が一つ乗っている。応接セットを挟むように、二人は向かい合わせに立っていた。張り詰めた空間に響くのは時差を含んだまま動き続ける二つの時計。
「狂ってるな」
「そう。あなたも僕も狂っている。グルドも、そして、世界もね」
沈黙を破り、聞こえて来るのは虫の声。

「なら、今は違うと言うのか?」
「違う。今はグルドと僕。どちらが正しいのか、はっきりと言える」
隅々まで明るい照明に照らされているその部屋に虫が1匹紛れ込んで来た。
「それは、おまえが正しいと言いたいのか?」
「もちろん。僕は正しい。僕は正義で、僕は自由。誰も僕を捕まえることなんか出来ないし、彼女への愛もピアノも、何者だろうと僕から奪うことは出来ません。そう。たとえそれがキャンディー、あなただったとしてもですよ」
外では風が逆巻いていた。昆虫は羽を広げたまま、擦れた音を立てていたが、やがて動かなくなった。ガイストの影が忍び寄っていた。鼓動が高く波打って彼は苦しさに喘いでいた。


「あの時にはね」
ハンスが言った。
「確かに僕はキャンディー、あなたに美樹を頼むと言った。でも、それは僕が死ぬって思ってたから……。二つの弾丸のうち、一発が僕を殺した。でも、それは僕を生かすためのガイストの弾だった。それで僕は生き延びて、今ここにいる」
「やめろ。堂々巡りだ」
「何ですか? それ、意味わからない」
ハンスが口を尖らせる。
「また、サイクロプスのような奴が来たらどうする?」
「それは……」
「わかっただろう? 一人の力では限界がある」
「でも……」
反論しようとするハンスを抑えるように飴井が言う。
「能力に頼っていると痛い目を見るぞ。前回みたいにな」
「あの時は……」
言葉に詰まる。
「ならば、早急に問題を解決すればいい」
ルドルフが口を挟む。
「速やかに危険を取り除けば……」
「だが、敵はどこに潜んでいるか知れないんだぞ」
不安そうに飴井が意見する。
「ワルターに口を割らせる」
「出来るのか?」
男が頷く。
「では、今日のところは解散しましょう。あとでデータを送ります」
席を立ってジョンが言う。皆は頷き、部屋を出た。